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日本語のテストは外国人には難しい筈ですよ/実践 私の実存主義講座 第253回 [ことばと社会]

(ジコ主張は控えめに、8pt で書かせていただきます)


今の日*語は重度複合障害言語で、本来在(あ)っちゃいけない言語なのです。

神様については雨後の筍の様にいっくらでも好きなだけ作っても良いが、生まれながら治療困難な難病者を積極的に造れないのと同様、日*語をこれ以上増やすのは、世界は要注意しなければならない言語です。




(実存主義との兼合い)

『実存主義は、神が存在しないことを力のかぎり証明しようとするという意味で無神論なのではなく、むしろ神が存在しても何の変りもないと明言する。それが我々の観点なのである。神が存在すると信じているのではなく、神の存在の問題が問題なのではないと考えるのである。人間は自分自身を再発見し、たとえ神の存在の有効な証明であろうとも、何ものも人間を人間自身から救うことはできないと納得しなければならない。この意味で

実存主義は楽観論であり、行動の教義である。』(JEAN-PAUL SARTRE 著 伊吹武彦 訳[L'EXISTENTIALIZME EST HUMANISME](日本語版「実存主義とは何か」副題「実存主義はヒューマニズムである」)の最終部分より一部抜粋)

(私からのコメント)

驚くことなかれ、人類最後の哲学者にふさわしく70余年たった今でもここの部分には、一切余分なところや言い足りないところが一字たりともいささかもないと僕は思慮する。

訳し方も語順が大きく違うフランス語から日本語へと、論理には関係ない「我々」を「われわれ」と書くなどを別にすれば、実に秀逸であると言わねばならない。

この部分は、「我思う、故に我あり」の真理に次に続く様な真理が述べられていると言ってもいいのではないでしょうか。

サルトルがこの論文を書き上げたのが、1945年の若干40歳の若さであった。

サルトルがノーベル賞を固辞したのも一方では自分の哲学(行動の教義)は、必ず再評価される時代が来ると言う自信があったのではないでしょうか。

ただこの論文の最後の最後に「キリスト教徒が自分自身の絶望とわれわれの絶望とを混同し、われわれを絶望者と呼ぶのは欺瞞によってである。」と正直に書いてしまったので米国に不信感を持たれ、当時反共の旗頭であった米国の政治的予防線を張られた形になったのではないか。

米国は第一次大戦を挟み、第二次世界大戦前後も、そして第二次世界大戦後の復興の時代も、サルトルが纏めた「行動の教義」通りに行動をしている。

つまりサルトルは、アメリカをもすっかり飲み込んでいたのである。















 本来あっちゃいけない言語 要注意の言語 ジコ主張

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