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米国は粘着的な性格を嫌う国のようだ。サルトルも粘着的なものを非常に嫌った。その粘着性が対象にしたものの主体性を奪うからであろう/ 主体性の哲学「実存主義」/ 東洋の妖精/ サルトルと米国と日本/ サルトルは美人に目がなかった!? [サルトル]

米国は粘着的な性格を嫌う国のようだ。サルトル粘着性を非常に嫌った。あの国の政治家はぶらさがりも、すがりつきも嫌う性格に見える。

この点でサルトルと米国は合い通じるところがあると思う。

米国は一つのことに拘泥はしない、常に新しいものを求めているようである。

サルトルは米国へ行ったことがあるが、日本には来たことがない!?。フランスへ行った!?加賀まり子とは会っている。(以前加賀まり子がサルトルと彼女とが一緒に写っている写真をスタジオパークか何かで披露したことがある。サルトルは片方が極度の斜視で、その写真ではその目

が写らないようなカメラアングルで撮られていた。ボーボワールも一緒の写っていたと思う)

サルトルが日本に来て日本語に触れそして日本語の音韻、文法、言葉と発音記号が混じったことなどを知ったなら、サルトルは腰を抜かすほど*びっくりしたに違いない。

* 「意識は他の存在と同列に並べられる存在ではない。意識は自己を超越したものを思考する」とサルトルは言っている。洞察力の鋭いサルトルなら、「ことば」と「発音記号」は同列に並べられないことに当然気づくに違いない。(下線はブログ管理者が付記)

実存主義の哲学ではこの宇宙の存在物を二つの存在に分けている。「即自存在」と「対自存在」である。

即自存在」とはそれだけで存在できるものて、石ころとか富士山とか素粒子とかである。「対自存在」とは自分自身を意識したり、自分の外にあるものを意識したりするものであり、今のところ人間だけのようである。

サルトルは「意識(対自存在)は他のもの(即自存在)と同列に並べられ存在ではない」と「意識」と「他のもの」を峻別している。

言葉(word)と発音記号(key)であるカタカナが混在した日本語文は、繊細なサルトルには言語としてとても認められないほどの非常な違和感を与えるに違いなかったのではと思うのである。


Jean-Paul Sartre (1905 -1980)
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恋のフーガ
作詞 なかにし礼
作曲 すぎやまこういち
唄 ザ・ピーナッツ

追いかけて 追いかけて
すがりつきたいの
あの人が消えてゆく 雨の曲がり角
幸せも 想い出も 水に流したの
小窓打つ雨の音 ほほぬらす涙
初めから 結ばれない
約束の あなたと私
つかのまの たわむれと
みんなあきらめて
泣きながら はずしたの
真珠の指輪を

初めから 結ばれない
約束の あなたと私
帰らない面影を 胸に抱きしめて
くちづけを してみたの
雨のガラス窓
ドゥドゥビドゥバ
ドゥドゥドゥビドゥバ
パヤパヤパヤ

  ◇

MyBlogRelatedPage: 日本語はそもそも即自存在・Being-in-itself・先史人用の言語であり、英語・中国語は対自存在・Being-for-itself用の言語である客観的証拠(簡潔で美しい現象)を見つけた!(2014年追加)


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RandUnmaf

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