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またあのサルトルかぶれが!/ サルトル哲学は現代社会も貫いている!? [サルトル]

世界の臓器移植の基準は、提供者の脳死が前提のようです。人間が脳波を出さなくなると言うことは、認識、意識、思考がなくなるということからではないでしょうか。

一方、この世(宇宙)にある存在を、「意識」あるものと意識のないものと二つに分けた哲学者がいます。サルトルです。彼は意識のない存在を「即自存在」として、意識のある存在を「対自存在」として捉え、「対自存在」として人間を指しているようです。

ところで、上に言う「脳波」と「意識」とは同じ事象のことを問題にしていると思う。世界の趨勢とサルトルの考察は偶然の一致でしょうか、と思うのです。



臓器移植は生命倫理にかかわることで、いろいろな考え方があり得るかと思いす。類人猿くんの認識不足もあるかも知れませんので、ここではこれ関してこれ以上言及するつもりはありません。



サルトルの言葉

[ダイヤ]「即自存在」 = それ自身で存在できるもの。椅子とか石ころなど。「それがあるところにあるもので、それがあらぬところにあらぬもの」(なにか禅問答みたいですがそうではありません-類人猿くん[わーい(嬉しい顔)]
[ダイヤ]「対自存在」 = 「意識」。「意識は常に何物かについての意識である」「意識は他の存在と同列に並ぶ存在ではない、意識は自己を超越したものを志向する」「それがあるところにないもので、それがあらぬところにあるもの」
[ダイヤ]意識自体は《重さも形もなく》「無」である《が、それを内包している人間は存在する》《括弧書きは類人猿くんが推測し、付け足したもの》。人間は死を迎えることによって即自存在となる。
[ダイヤ]人間は自分の意思で生まれてきた訳でもないのに自由である、選択する自由がある。そして選択した結果に責任を持たなければならない。それをわたくしは、『人間は自由という刑に処せられてる』と表現したい。
[ダイヤ]いかなる人間でも生きながら神格化されるには値しない(Nobel 文学賞辞退の大きな理由/ 当時は相当な変わり者に看られていたのでは。サルトルは欲を殺した眼で物事を考察して行ったようです-類人猿くん言)。

 ◇

MyBlogRelatedPage: 日本語はそもそも即自存在・Being-in-itself・先史人用の言語であり、英語・中国語は対自存在・Being-for-itself用の言語である客観的証拠(簡潔で美しい現象)を見つけた! (2014年3月追加)


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