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英語と実存主義との関わりについて/ 「AはAであったとしか言えない」について [サルトル]

実存主義では「AはAである」と言えるのは「即自存在」(石ころ、椅子、原子などの物質の世界)においてであり、「対自存在」(意識、心の世界)においては、「AはAであったとしか言えない」と説きます。

意識は言葉でなされるから、「意識」の世界とは「言葉」の世界です。「言葉」の世界でも、「AはAであったとしか言えない」の法則が働いてるとわたしは考えます。

英語や仏蘭西語では読み方がいろいろです。英語に至っては「このような場合はこう読む」というあきらかな規則性がありません(この意味で英語は、とても「自由」な言語* なのです)。


例えば

foreign; eight; seizure; weird

child; Chicago

corps; corpse


など、読み方はまちまちです。なのに私たちが英語をすらすら読めるようになるのは何故でしょうか。そこにはサルトルの実存主義の哲学と関係があります。

私たちが紙に書き留めた文字は、書き留めたそばから「過去のもの」になってしまいます。そして過去のものに拘泥している必要はないのです。いや過去に拘るべきではないのです。意識の世界はどんどん変わって行きます。意識(言葉)の世界では、「AはAである」と主張するのは筋ではな

いのです。読み方については、過去のものになってしまった綴り通りに読む必要は全然ないのです。

英語には、「このように文字が並んだときはこう読む」という規則化、定型化した読み方はないのです。英語はそれを非常に嫌います。英語は、サルトルの実存主義「AはAであったとしか云えない」という哲学に適った言語なのです。


* 自由な言語: 英語には読み方を裁定をする機関がありません。読み方が定着するのは、英語を喋る人たちの最大公約数的な読み方です。ですから読み方は綴りに関係なく時代と共に変わって行きます。


Jean-Paul Sartre
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 ◇

MyBlogRelatedPage: 日本語はそもそも即自存在・Being-in-itself・先史人用の言語であり、英語・中国語は対自存在・Being-for-itself用の言語である客観的証拠(簡潔で美しい現象)を見つけた!(2014年9月追加)

 


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