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訓読みと「上を向いて歩こう」と日本語 [ことばと社会]

この記事は以前掲載したものを、一部字のポイントを大きくしたり、気がついた字の間違いを訂正して、再掲したものです。

 

      
 

 

シカゴ市内。アダムス通りの始点。旧ルート66の始点?この右手にはミシガン湖があるのですが、あいだに大きな公園、施設、緑地帯があるため湖は見えず、シアーズタワーからは湖とヨットハーバーが見えました。

<訓読みは美しい/「上を向いて歩こう」が世界なヒットになった一つの理由>

それは歌詞の中に「音読み」の言葉が一つもないから。

この歌は「SUKIYAKI」とタイトルこそ替えられたが原語のままで歌われ、メロディの快活さと唄い手のキャラクターの明るさと日本語の美しさが世界に認められたということを意味すると思います。
ことに漢字の音読みの無い日本語の美しさが世界に理解されたと言っていいでしょう。

現代日本語の中の漢字には「訓読み」と「音読み」がありますがこの歌には、音読みが一つもありません。

訓読みは美しいのです。

それはなぜかというと、訓読みは、人間の「感情」から出てきたことばで、音読みのように中国の読み方が単純化され外から与えられたようなものではなく、日本の土壌から生まれた日本語を構成している数多くある音声の組み合わせから、ある哲学者の名言どおりに唯一無二に選ばれたことばだと思うからです。その名言とは「人間は真・美・善を追い求めるもの」というものです。

訓読みは、音読みのように同音異義語(発音とイントネーションとアクセントが全く同じ)に、いくつもの意味を詰め込むことはしていません。原則としてただ一つだけです。

物や概念が違えば口を衝いて出てくる言葉(発音)は、微妙に違うはずです。これが自然の摂理だと考えます。

そしてその土地で自然発生的に生まれた訓読みは日本語の宝石みたいなものです。

このレコードは69カ国で発売されました。もちろん、日本で生れた純オリジナル曲が全米1位を記録したのはこの「上を向いて歩こう」(SUKIYAKI)ただ1曲だけです。

そのほか、原語のまま全米1位になったのは「ボラーレ/ イタリア」、「ドミニク/ ベルギー?」外3曲のみのようです。

これは大変な快挙であって、米国のポップスがその言語のままで日本のオリコンチャートの1位を占めるぐらい難しいことだと思います。

つまり違うことばの文化圏を跨いで1位になることは神業にも近い現象なのです。

梓みちよの「こんにちは赤ちゃん」もそうです。これも各国で流行った歌ですが、この歌にも「音読み」がないと思います。しいて言えば、「こんにちは」は「今日(コンニチ)」に「は」が付いたものと考えられますが、日常使われるようになっていて、ひとつしかありませんから訓読みに近いと見てよいでしょう。


この「上を向いて歩こう」の歌に出てくる言葉を例に出して日本語を考えて見ましょう。

ある世界史に残る哲学者は「人間は真・善・美を求める存在である」というようなことをのたもうたと聞いております。

音楽とは音の美しさを究極に求めるものであると思う。完成された音楽は聞き手に100パーセントの気持ちよさ(音の美)を与えるものだと考えます。

ですから曲の中でちょっとでも違和感を感じさせるものがあれば、世界63カ国で原版で発売されることはなかったでしょう。

どこかの国のジャパン・ハンドラーが操ったとも考えにくい。

もし「しあわせは雲のかなた」が「コウフクは雲のかなた」だったらどうでしょう。これは「しあわせ」の部分を、音階をひとつ半音に変えるにも等しいことです。「しあわせ」は純粋な大和言葉です。大和言葉の中に漢読みの変形である音読みが一つだけ入っていると、聞き手に違和感を感じさせるのです。

これでは「上を向いて歩こう」も陽の目を見ることはなかったでしょう。

日本人は訓読みは美しいな、訓読みを大切しなければいけないという意識を持つべきではないでしょうか。ところが現実には、漢字熟語の音読みが増えるばかりです。悲しいことです。

シカゴ市内

次から出てくるカタカナことばとその直後の括弧書きの数字は、同音異義語(発音とイントネーションとアクセントが全く同じ)とそれが持つ意味の「数」です。

「(0)」の場合はそのカタカナ以外の音読みがないことを意味します。

「明解日本語アクセント辞典」(第二版・金田一春彦監修・第二版・1988 年9月10日・第10刷発行)に依りました。

たとえばそれにに依ると「セイコー(10)」には同音異義語が10個あること意味します。精巧、生硬、成功、性交、製鋼、精鋼、西郊、性行、性向、政綱と10個あるそうです。

それらのの意味を英語で表すとだいたい「精巧(Elaborateness)」、「生硬(Crudity)」、「成功(Success)」、「性交(Sexual intercourse or having sex with)」、「製鋼(Steel making)」、「精鋼(Refined steel)」、「西郊(West suburban)」、「性行(Character and behavior)」、「性向(Temperament)」、「政綱(Party program)」となると思います。「聖公会」の「聖公」はアクセントが違うそうです。

(計)ケイ(10)10の意味合いを、たった一つの全く同じハツオン(2)の「セイコー」(「セーコー」とヒョウジ(2)されるバアイ(0)がある)という一つの言葉に10個の意味合いを詰め込むわけですから、イジョウ(4)としか思えません。

こんなゲンゴ(0)は日本語だけだと思います。言語道断の言語だと言わざるを得ません。

こういう言語を使っていると異常になりやすい。これからはほとんどの日本人は異常ではないかというカンテン(4)から物事を見てください。フ(5)シゼン(2)極まりないです。シゼン(2)のセツリ(2)にハン(11)しているのです。日本はこのままではまた呪われた国になりうるのでは。

「精巧(Elaborateness)」と「性交(Sexual intercourse)」は全く違うガイネン(0)なのになんで「セイコー」あるいは「セーコー」という全く同じハツオン(2)を使うのねん?「成功(Success)」と「性交(Sexual intercourse)」は全く違うガイネン(0)なのにどうして全く同じハツオン(2)を使うねん?リョウホウ(3)とも「セーコー」した後は気持ちいいからでしょうか。「性交(Sexual intercourse)」と「政綱(A party program)」とは全く違うガイネンなのにどうして全く同じハツオン(2)の「セイコウ」あるいは「セーコー」を使いざるを得ないねん?

ドウオン(0)イギ(4)ゴ(4)が非常に多いゲンゴ(7)が「ノウ(6)」に及ぼすエイキョウ(0)、しいては日本のブンカ(5)、レキシ(2)にどういうエイキョウ(0)を及ぼして来たか、ショウライ(4)にどうエイキョウを与えるのか、コッカイ(0)ギイン(2)のショシ(10)、モンブ(0)カガク(4)ショウ(3)のお役人さん、カク(7)ジチ(0)タイ(7)のギイン(2)およびお偉方さん、キョウイク(0)チョウ(14)さん、人のまた人の上に立つガクチョウ(3)さん、コウチョウ(8)センセイ(0、アクセント違いが4個あります)そしてコクゴ(0)のセンセイ、コクゴ(0)ケンキュウ(0)ジョ(2)でケンキュウされている方たち、どのようにケンキュウをされ、どんな考えを持ちでおられ、どんなカンソウ(3)、ケンカイ(4)を持たれているかごセツメイ(0)してくれませんか。インターネットジョウ(8、アクセントが違うのが(5)コあるそうです)コウカイ(6、アクセントが違うのが4コあるそうです))してくれませんか。

 

シカゴ市内

フ(5)シゼン(2)極まりない言語(0)を使っていると、フ(10)シゼン(2)なインネン(0)がやってきます、いまはニホン(0)はケイザイ(0)リョク(0)で他のヨウソ(2)をカバーしていますが。

ジッサイ(0)、カコ(2)にニホン(0)の国だけに負わされたサンカ(4)があったではないですか。それもイチド(0)ならずともニド(0)も。

それイゴ(2)同じサンカ(4)はどこの国にも起きていません。あなたは、このサンカ(4)をどう捉えますか。わたしは、「ニホン(0)の国は生まれ変わりなさい」とのメッセージと捉えていますいますが。


いくら世の中の動きが速くなったからとして「など」ということばを「トウ」なんてハツオン(0)しないほうがいい。なぜかとうと「トウ」はゴカン(5)になりにくいからです。

ワープロ・キノウ(4)で「トウ」と打ったらいくつカンジ(2)が出てくるでしょうか。63コ(9)出てきました。

ゴカン(5)があるということはその「ことば」だけを聞いて、誰でもがハンシャ(0)・テキ(0)に一つだけしかないそのの「イミ(0)」をキョウツウ(2)して思い浮かべることができるということです。

そして、「ことば」というものは「ことば」のタイショウ(10)ブツ(3)やガイネン(0)が違えば、口を衝いて出るハツオン(2)あるいはイントネーションが違うのがシゼン(2)のセツリ(2)に適っているのです。

ほとんどの日本人は異常なのです。周りがこんな言語しか話さないからその異常さに気づいていないのです。

ガイコク(1)ゴ(5)にもドウオン(0)イギ(4)ゴ(4)がありますが、それはヒジョウ(2)に少ないです。

In front of Chicago Cultural Center

ゴカン(5)を持ち得ないドウオン(0)イギ(4)ゴ(4)としてほんのわずかですが挙げてみますが、「イジョウ(4)」、「カジ(5)」、「カンチョウ(9)」、「ギシ(6)」、「ケッコン(2)」、「コウガン(3)」、「コウショウ(19)」、「コウショク(5)」、「コウテイ(15)」、「コウフク(3)」、「コウモン(5)」、「コウリツ(3)」、「コジ(8)」、「サンドウ(5)」、「ジ(5)」、「ジイ(5)」、「シキュウ(6)」、「ジコ(2)」、「ジシン(3)」、「シテン(3)」、「ジテン(4)」、「シャセイ(2)」、「ショチョウ(3)」、「シンコク(4)」、「セイ(10)」、「セイキ(8)」、「セイコウ(10)」、「セイチ(3)」、「セイリ(2)」、「セイテキ(3)」、「セイリョク(2)」「ソウロウ(3)」、「タイショウ(10)」、「テンサイ(4)」、「ドウテイ(2)」、「デントウ(2)」、「ハッセイ(2)」、「ヒナン(2)」、「ヒニン(3)」、「ムセイ(3)」、「レットウ(2)」、などのハツオン(0)はゴカン(5)を持ってないことになります。

カンジ(2)三つ使ったものに「フケイザイ(2)」と「フトウコウ(2)」もあります(「フトウコウ」については、ジョウキ(4)金田一春彦シ(13)のジテン(4)には載っていませんが、たぶんトウジ(5)フトウコウのうち一つはシヨウ(7)ヒンド(2)がヒジョウ(2)に少ないこと、もう一つは今ほどワダイ(0)になっていなかったころヘンサン(0)されたからでしょう。

どっかの国の人が知ったら笑っちゃうでしょうね、カレ(0)らはこれらの漢字をヒャク(0)パーセント近く、違うようにハツオン(0)するんですから。

ケイザイ(0)カイ(3)のお偉方さんや、ニホン(0)のコッカイ(0)ギイン(2)さんタチ(1)も、ケイザイ(0)だけでなくジブン(2)の使っている「コクゴ(0)」について「頭を抱え込んてもらってもいいのでは」ないでしょうか。なにかバッポン(1)サク(6)を考えてくれないと、これではコクミン(0)もがかわいそうです。

「このサクヒン(0)は●▲ガハク(0)が15サイ(10)のときにのシャセイ(2)です。」

「これからみんなでシャセイ(2)しに行きましょうね。」

「スケッチ(Sketch)」と「エジャキュレーション(Ejaculati*n)」とは全く違ったガイネン(0)ですぞ!!

「姉歯*サンキュウ(2)ゾウエン(2)ギシ(6)のギシ(6)のギシ(6)」という文も成り立ちます(イチブ(2)、ドナルド・キーン・シ(13)のチョショ(0)「ニホンゴ(0)のビ(3)」の中の「技師の義姉の義歯」p38 からシャクヨウ(0)、ISBN4-12-203572-4)、(*「三級」と「産休」両方(3)とも金田一シ(13)のジショ(3)には載っていません。

NHKのニュースでは「何々線はただいま、運転を差し控えています」と気を使っています。以前は「不通」なっています」という言葉を使っていました。

また、「何々党が試案、「こころみ」の案を提出しました」と試案をシアン化合物と取り違われないように気を使っています。

「ドウテイ(virnginity)」と「ドウテイ(distance)」とは全く違うガイネンではないでしょうか、それがなぜ「ドウテイ」(ヒョウキ(2)ジョウ(8)は「ドーテー(2)」とすることあり)と同じハツオン(2)しなければならないんでしょか。

「カンチョウ(ebb tide)」と「カンチョウ(enema)」は全く違いガイネンなのに、なぜ「カンチョー」とハツオン(2)しなければならないんでしょうか。

「ジイ(intention to resign)」と「ジイ(masturbati*n)」は全くガイネンが違うのに全く同じ「ジイ」とハツオン(2)をしないといけないのか。

数え上げたら切がない。

中国(0)人(4)が笑っちゃうよ。(文庫本「日本人は永遠に中国人を理解できない」孔 健 (著)に私の言っていることが書かれてることが書かれているかどうか分かりませんが)。

これは、ナイシン(3)「いやらしいわね~」とか、「だってしかたないもん」で済まされることではありませんぞ。長い間には、ニホン(0)ジン(4)の顔相、しいては骨相(これも辞典になかった)にもカンケイ(5)してくることだと思います。

「セイコウ」(success)ということばを使いながら、ナイシン(5)、セイコウ(sexual intercourse)と全く同じことばをときどきイシキ(0)しながら使っているジブン(2)がショウジキ(0)なところ嫌になることがあります。

「シキュウ(6)ガン(7)のジョセイ(5)にコウガン(3)ザイ(2)をトウヨ(0)する」などのニュースで聞いたりすると、ニホン(0)ゴ(4)は凄い言葉だなと思います。

こういうゲンゴ(0)はセカイ(0)にはありません。またこういう言葉を話さざるを得ないところに、ニホン(0)のセンゴ(0)のコウド(6)経済セイチョウ(9)をなしとげたブレーキの利かない社会が持つヒボン(0)なカツリョク(0)のゲンセン(2)があろのだと思います。だってほかのミンゾク(0)がゼッタイ(2)やらないことをヘイキ(2)やっちゃんですから。

 こう考えるとニホン(0)ジン(4)は何かタイセツ(4)なものを金と物に替えてるに過ぎないのではないでしょうか。そのタイセツ(4)なものとはこどもの「目の大きさ」であり、「顔のヒョウジョウ(4)の豊かさ」であり、「顔の凹凸さ」であり、このままではニホン(0)ジン(4)の顔はますます扁平顔になっていくと思います。最新語で言うとより少ないピクセルで記述できちゃうのです

シカゴ市内

日本人の子供の目の小ささと外国の子供の大きさとに心を痛める教育関係者はいないのでしょうか。それらを朝から寝るまで物心付く前から死ぬまで喋っている国語(日本語)と係わり合いで考える政治家や文部関係の人はいないのかしら。

日本にはほとんどいないと思われる。というのは言語学者は「外国語を習得しようとしている人」、「外国語をひとつ異常、じゃなかった以上でした、一つ以上喋る人ひと」或いは「言語の発達と構造に特別の知識をもっている人」とのことのようです。

とくにいったん日本語から離れて他の言語の見地から日本語を見る必要があるのです。日本人は自分地震じゃなかった、「自身」でした、の言語を知らないことが多いのです、わたくし自分を含めて。

言語とその言語だけを話す民族の国民性とか行動様式を考えたり、その言語だけを永いこと話している民族の顔相、骨相まで研究対象とするのが社会言語学というものです。それには外国語をひとついジョウ話せることが必要です。

それですから日本には sociolinguist が皆無に等しい。本来ならば給料をもらっている国語研究所がやらなければならないのに。国語研究所が設立されて何年になるのでしょうか。その間ほとんどthe研究所は何も職責を果たしてこなかったのですね(日本語には 'the' に相当する便利な表現方法がないのです)。

 日本人はよく同じ質問をする、日本人からは同じ返答が返ってくる(とくに外国へ行ったことがない人は面白いほど同じことを言う)というのは今やほぼ定説です、面白いですね日本人は。

日本人は知らず知らずコピー人間になっているのです。

ニホンゴ(0)をベースに話している限りしている限りテレビのコマーシャルに出ているジャス*ンちゃんのようにヒョウジョウ(4が非常に豊かで生き生きしたキャラクターはゼッタイ(2)出てこないと思います(近いキャラクターはいますが、非常に少ないです)。

わたくしはゲンゴがゲンイン(3)していると思います。

「トウ(12)トショカン(1)は●月▲▼日~●月▲▽まで「セイリ(2)・キカン(8)です」これはセイリ(2)がダブっています。キカン(8)にもセイリ(2)というイミ(0)があり、ジョセイ(5)のキカン(8)(シュウキ(8))テキ(0)に来るものを 'period' と言います。('I had a period this morning.' 「けさセイリ(2)があったのよ」エイガ(2)、リチャード・ギア・シュエン(2)「アイ(3)とセイシュン(0)の旅立ち)」'An officer and a gentleman'より)。

「ゴウ(8)コン(5)」などということばを聴いて、その意味を知ったときびっくりしたことがあります。なんで若い男女(0)の集いを「合コン」といわなきゃならないのですか。「ゴウコン」または「ゴーコン」という響きはこのバアイ(0)ヒジョウ(2)にふさわしくない。まさに、Poor Japanese です。イチジ(4)間違えば大変(0)なことになる。

こういう言葉を使わざるを得ないニホンジン(0)はイチジ(4)的(2)にはブッシツ(0)的(2)に豊かなセイカツ(0)をしていますが、ゲンゴ(0)的(2)にはセカイ(0)一(2)貧しい言葉をしゃべっていると思います。そういうブッシツ(0)的(2)な豊かさは長続き(人間は命を繋ぐものですからサイテイ(3)ヨン(0)セダイ(0)120ネン(2)のサイクルで)しないと思われます。

にほんはこの一サイクルで浮き沈みのなんと激しい国なんでしょう。日本はこの意味でもバランスの取れてない国ということが分かります。120年以上戦火に晒されたことのない国へ行ってごらんなさい、有形無形の財産が蓄積されていることが分かりますから。

この「合(8)コン(5)」という言葉はまた、これまでの日本(0)のブンカ(5)がチュウカ(0)ブンメイ(3)とセイヨウ(0)ブンメイ(3)の、やり場がない吹き溜まりであることのショウサ(2)だと思います。

どうせなら、チュウカ(5)ブンメイ(3)とセイヨウ(0)ブンメイ(3)がミックスして、セイレン(4)された言葉になってくれればいいのですが、ことばにカン(3)して言えば、セイレン(4)どころかますますフシゼン(0)になっているようです。

「だって他にヒョウゲン(3)のしようがないもん」のなら、そういうニホンジン(1)を「Poor Japanese!」 としか言いようがありません。(これは「第三の男」の映画で、愛人の女性にも愛想をつかされ思わず女性の口を衝いて出てきた 'Poor Harry' をもじったもの)。

わたくしのチョッカン(4)ですが、こういうゲンゴを使っているミンゾク(8)は、ニホン(0)シュウヘン(0)の国々より、先に滅びると思います。

 ニホン(0)には「他人(ひと)の褌でスモウ(0)を取る」という諺があります。

カンジ(2)はチュウゴク(1)からの借り物で、チュウゴク(2)で使われているようには使っていません。それを亜流に使っているのです。ニホンジン(1)の身体(からだ)にあってないのです。褌を他人(ひと)からの借りた者ドウシ(6)で相撲を取るとまわしがずれ易く、往々にして黒いもの(あるいはサポーターの白い色)が見えることがあるのです。どこに目をやったらいいのでしょうか。

シカゴ市内

ニホン(0)ゴ(3)にはこういう言葉ドウオン(0)イギ(4)ゴ(3)がメジャーなってしまったゲンゴ(0)と言っていいでしょう。こんなゲンゴ(0)はセカイ(0)広しといえどもニホン(0)ゴ(3)だけでしょう。

これは一つのタンゴ(0)を聞いてハンシャ(1)テキ(0)にソクザ(0)にその意味合いを聞き手に知らせる役目を負っている「ノウ(6)のヤ(5)」がほとんどム(2)カンカク(4)なっているか、あるいはハカイ(2)されている(D クラス: D; Deterioration)のであって、これでは埋め立てヨテイ(0)チ(4)のゴミ捨てバ(0)のようなものです。

埋め立てヨテイ(0)チ(4)のゴミ捨てバ(0)のような中からショヨウ(2)のものを捜すのはヨウイ(1)なことではありません。ですからそういう人はゼンゴ(2)のミャクラク(0)から、あるいはそのバ(0)のジョウキョウ(5)ハンダン(0)から言葉を選ぶしかないのです。これはノウ(6)の他のカイロ(3)(ヤ(5))を使っているのです。

これはイッケン(2)シリョ(0)深いと見られますが、飛んでも八分(0)歩いて百分、軽いジョウソウ(1)ショウガイ(3)です。ニホン(0)のセイジ(3)カ(4)、ケイザイ(0)カイ(12)の大ゴショ(1)、カンリョウ(2)のテレビに映る顔をガイコク(0)ジン(4)のそれと比べてみてください。(こういうことを考えたり言ったりするのはわたくたしイガイ(2)恐らくいないでしょう)。

弥生(この「弥生」はジュンスイ(0)なワゴ(0)のような感じがします)シキ(3)ジダイ(2)まで文字(これもワゴ(0)かもしれません)がなかったということは、ニホン(0)ゴ(5)はジュンスイ(0)なオンセイ(0)ゲンゴ(3)だったのです。

そこへ、イチジ(4)でもコウド(5)なチュウショウ(2)ガイネン(1)をも表せるカンジ(2)がドウニュウ(0)されたわけです。これはセカイ(1)ゲンゴ(0)シ(12)ジョウ(9)(世界言語史上)、イチバン(1)悪いセンタク(2)をしてしまったと思うのです。

カンジ(2)が悪いといっているわけではありません。ゲンゴ(0)のうちで、文字とオンセイ(0)(ハツオン(1))がおなじバショ(7)チイキ(1)でセイセイ(4)されたというのは世界には数えるほどしかないそうです。音声が自然発生的に生じたのですね。

ニホンはサイショ(2)のうちはカンジ(2)を当て字にリヨウ(2)していたようです。この時点ではまだニホンゴ(0)はオンセイ(0)ゲンゴ(0)としてのジュンスイ(0)セイ(11)が保たれていたと思います。

きりがないのでここいらで、カタカナ書きと括弧の同音異義語の数の表記は止めにします。

「しろがねもくがねも玉も何せむに まされる宝 子にしかめやも」 
と歌われていた時代までは、日本語の音声言語としての純粋性が保られていたと思われます。

最近、小学生が犠牲になる事件が多いようです。そのたびにテレビのニュースで校庭や体育館で遊ぶ小学生たちの顔が映りだされます。注意してみると概して目がインゲン豆を横からみたような、非常に細い子が多いように思われます。それがわたくしの想像、仮説力をかきたてるのです。

つまり、日本人の目は世代を追うごとに小さくなっているのではないかということです。日本人は働いても働いても使っている言語のため、目が小さく、顔の表情が無表情になって行くのではないでしょうか。

同音異義語(発音もアクセントもイントネーションも同じ)を多用とすると、顔の表情がより無表情になり、目が細く小さくなり、顔の凹凸がより扁平になると思うからです。

「コウモン(5)」などはいろいろな意味を持っています。

「明解日本語アクセント辞典」第二版・金田一春彦監修によりますと、後門、校門、肛門、*閘門、*黄門とあります。これらはすべて発音、イントネーション(アクセント)同じです。

シカゴ市内

しかし中国ではこれらは 「h o u m e n」、「 x i a o m e n」 、「g a n g m e n」と発音され、しかもイントネーションがすべて違います。(*「閘門」という中国語には単語はないみたいです、また*「黄門」という字は日本の固有名詞で中国語にはない)。

中国語の漢字には一字一字に「U」「/」「\」あるいは「―」のいずれかのイントネーションを持っています。

 ところが、日本語では「コウモン」という一つの発音に五つの意味が込められています。これは一つの入れ物にいろいろなものを詰め込んでいると同じではないでしょうか、ゴミ箱みたいなものではないでしょうか。語感になりえないのです。

「校門」School gate と「肛門 Anus」がどうして「コーモン」でなければならないのだ?これは自然の摂理に反することです。だから日本人は何を考えているのか分からないといわれる所以でもあると思う。

日本人は「コウモン」と聞いただけで意味を「確定」できないのです。確定できないから無条件かつ反射的なレスポンス(反応すること)ができないのです。生き生きした反応をすることができないのです。

シカゴ市内

日本人は何らかの方法で結局反応するのですが、顔の表情として、そのあいだ無表情でいるのを余儀されるのです。これは軽い情操障害です。これが日本人が世界一無表情である民族の原因であり本因であり、遠因でもあると思います。

テレビに映っている国会の答弁などの顔を見ても理解できるでしょう。議員、官僚さんの棒読み、「記憶にございません」、「刑事訴追の云々・・・」などなど。

ほとんどの日本人は無条件に反射的に反応できないため、その場の状況、文章の前後の意味合いを「判断」して意味を「確定」している。それはほんの僅かであっても時間がかかっているのでその間表情を表すことができません。「判断」し「確定」しなければなりませんから思慮深い人と見られますが、それは脳みその亜流の使い方です。

そういう「語感」を司る脳の「野」がほぼ破壊されている人々が日本では人の上に立つシステムになっているのが殆どのようです。国語ができる人や学業が全般的に優秀な人は、ほかの回路(野)を使っているのです。「判断」、「確定」するのですから、わずかながら時間がかかります。わずかな時間ですが反応するのが遅れます。日本ではそれは「思慮深い」と受け取られています。でもこれはルール違反です。欠陥なのです。

日本人を三種類の人間に分けることができます。

(1)同音異義語を聞いて頭を抱え込んでしまう人。(余談ですが日本語を勉強している外国人に多い)

(2)漢字を亜流に使った単語(同音異義語)だけ聞いただけでは反応できず「判断」と「確定」という作業、過程を経てはじめて顔に表情を表す人。(日本人には一番多い)

(3)それでも感情を抑えて無表情で通す人(もう完全に「語感」を司る「野」が荒廃あるいは無感覚になっている人)。(二番目に多いい)

(1)のタイプの人間は、すぐに感情を表すために単純と解される人、だがことばを司る脳の「野」は健全な人。外国語習得習得に向いてる人。

(2)のタイプの人は「状況判断」と「確定」の作業をするので思慮深く思われるが、「語感」を司る「野」がほとんど荒廃あるいは無感覚になっている軽い情操障害の人。こういう人は語学の習得がほとんどできない人。

(3)のタイプの人は軽い情緒障害があり国難のときはそれが人格障害になるひと。A級戦犯に似た人になりうる人。短期的(30~40年程度)には優秀な人と見られるが、そのような人から成り立っている集団は歴史的観点から(最低120年)は国の財産を食いつぶし、結局国を滅ぼす遠因および本因になるっている人。こういう人に学業優秀(オール5に近い人)のような人が多く、語学の才能が全くない人が多い。


日銀が発表する、「タンカン「tankan」」ということばは、経済の世界では世界共通語になりつつあるようです。殆どの日本の政治家や経済界の人は短観的な見方しかできないという印象を持たれているからか!8年間に7人の総理大臣が替わるなんて!。

最近、日銀のF総裁は日銀の「タンカン」という言葉に世界に向かってお墨付きをつけるようなことをしちゃって。日本はどこまでいっても「タンカン」の国なのでしょうね。かれは「タンカン」ということばが、世界共通語になりつつあることを知っているのでしょうかね。(「tsunami」ということばは世界の公式気象用語になっていまっているのですかね。そうなる前に止めたかったんですがね)。彼は金のことについてはすばしっこいが、ことばについては国際自閉症児なのでしょうね。日銀の国際的な評判を下げちゃったりして。金融界の容疑者の株を持ちゃったりして。

シカゴ・カルチャラル・センター前の交差点

日本という国は(3)のタイプの人が(2)のタイプの人と(1)のタイプの人をサメ(*)のように食い物にしている国であること。長期的な(少なくとも3~4世代先の)視野に立つことができず、少子化を予想できなくて深刻なものしたお偉方。

社会保障制度の危機的な状況を予想できずに来、親族、関係者だけ良ければというお偉方(今までの政治家や官僚に多い)。こういう国は馬鹿にされます。総理大臣が8年間に7人替わり同盟国の国家元首が大阪の国際会議もキャンセルして寄りつかない国。

かれらのほとんどは、区画整理も再開発もできない、獣が先鞭をつけたとしか思えない道路を結果的に造って、明日の日本も考えないで2号、3号、4号、5号とf**k ばかりしてきた政治家と行政官僚の末裔が多い。

*「日本人は鰯の群れ」(ISBN 4-7698-1018-0 )の本のなかでは、何千尾と固まっている鰯の回りをサメが回遊しているという。(3)タイプの人がそのサメと重なってしまうのです。(ちなみにこの本の原語版は発行されてないとのこと。事を荒立てたくなく、日本人だけに分かってほしいとの心遣いからか。それとも、多民族国家は自分のルーツを辿れば結局外国に行き着く関係で、外国の悪口を言うのは「最低中の最低」との考えが醸造されているのか、世界共通語での発行は控えて、しかし日本人だけには読んでほしいという気遣いからか。

O'hare International Airport からシカゴ市内?へ向かう Chicago Transit System の車内から。駅名は Jefferson Park.


戦後、国民がせっかく目隠しされた競馬馬のように働いて築いてきた富も次世代、次々世代に残すことができないのは、こういうサメ達がいたからでしょうか。

日本人は現代日本語を使っている限り、どんどん顔が無表情になり、より目が細く小さくなり、より顔の凹凸がなくなることが予想されます。

というのは、音声言語と視覚原語をゴタ混ぜに使ってそれを革(あらた)めようとしない民族の言語を使っている国民の顔は、その顔を表現するのには、今の流行のことば言えば、より少ないピクセルで済むからです。

数世代で顔相が変わると思います。骨相ともなると千年単位でしょうが。わたくしは弥生時代の人には狐つきみたいな目の人はいなかったのではないか思っています。そして感情を反射的に即座にそして現代の欧米人などのように生き生きと表していたと思います。

最近、ピクセルということばが定着し始めましたが、そういう無表情の日本人の顔をデジタルカメラで写真や動画を撮ると、音声言語を使っている欧米人などより一般に言って少ないピクセルで済みます。顔の凹凸一つとっても、凹凸(顔のほりが深い、浅い)の大きい方が面積が広いからです。キャンバスが大きいのです。キャンバスが広ければ同じものを描写するにもより精緻に書けるわけです。

つまり長期的に見ると日本人(日本民族)は、目の大きさと顔の表情を切り売りして、「金(かね)」と「物」に替えてるいるに過ぎないと言えないでしょうか。日本人は一方で大切なものを失っているのではないでしょうか。

新聞の一面?それとも車内広告?忘れました。

「国語を先にしっかりと覚えさせてから外国語の勉強を」ということばは耳にたこができるほど聞きました。日本語は漢字を本来のとおり使用してないので、国語自体が安定しないのです。読み方の表記も「セ-コー」とか「セイコウ」とか、また「分かち読み」なんかさせたり、ひらがな、カタカナがあり、日本の国語はいつまでたっても安定するはずがないのです。

シカゴ・カルチャラル・センター前のビル。オープンテラスがあります。

たかだか数十年前の戦時中は尋常小学校の教科書をヒラガナで読ませたとか?それ以前はソーロー(早漏ではないですよ)文とか。

台湾にみたいにひらがな、カタカナのようなものがなく、旧字の漢字だけがある国では小説でも、役所に出す書類でも、プレゼンテーションの文書でも、すべて旧字の漢字です。

はじめて漢字を習うこども達にとってはそれが当たり前と思っていますから、難しい漢字でも勉強しざるを得ない。

ひらがな、カタカナ表記のある国では漢字を覚えるのがなおいっそう大変です。漢字で書きべきところではひらがな、カタカナで済ませたり、読めるけど漢字は書けない子が多くなっている。もう日本国語教育は沈没寸前ですな。

だったらもっとドラスチックなことをやったらどうですか。いままでにやったことのないようなことを。これは本来純粋に音声言語である日本語に、モードの違う視覚言語を組み入れてしまった日本語の運命でしょう。

このことはパソコンにアナログ信号とデジタル信号を細切れに混ぜて送っているようなものです。これは自然界が予想してないことです。

現代日本語を国語に使っている限り教育が安定することは絶対にありません。そして国語が安定しなければ教育も安定しません。日本語が安定することは決してありません。漢字を亜流に使い、発音記号を本文に組み込んでいる言語は他にありまん。こういう言語は第二言語として補助的に使うべきです。

現代日本語は音声言語と視覚言語を細切れにして喋るのを余儀なくされているので、スピーカーからモノラル音声とデジタルステレオ音声を細切れに聞かされているようなもので、全くナンセンスなのです。

サリンガスは自然界に存在しないそうです。あれは人間が調合したものです。現代日本語はその生成過程がサリンガスの生成過程に似てはいないでしょうか。

「まずは日本語をしっかり使えるようになったら外国語を」と何十年と聞かされていることでしょうか。もうそんな悠長なことを言っている場合ではない筈です。日本民族はそのうち他の民族よりも早く日が暮れてしまうと思いますよ。

曲がりなりにも外国語を話せるということは、心にゆとりがあるということ。理由はどおあれ外国語を喋れないということは外国語を勉強してみたが歯が立たなかったとか、あるいは着ごごちのいい日本語という衣装を着てるほうが楽だという現実逃避でしかありません。

こういう現実逃避を自らし、外国語の一つも習得できない政治家に、国民がゆとりある生活の継続を保証できるわけがない。そのような政治家などは付け焼刃同然です。

因みに一番現実逃避をしてはいけない職業はなんだと思いますか。それは政治家のはずです。政治家が現実逃避していると短期的にはなんでもないでしょうが、長期的には歴史の節目節目で、キャタストロフィーハルマゲドン的に国難がやってきます。

生意気なことをいいますが、**大臣は経済のことはある程度分かるでしょうが、世界を知らない。知るということは耳学問ではない。体験なのです。そして現地へ行って相手の分かる言葉で聞きくことです。

そういう政治家は心証の世界で日本を世界に位置づけることはできません。日本の政治は茶番でしかかなかった。また日本の首相がころころ替わることでしょう(そうならないように願っていますが)。

本:「英語オンチが国を亡ぼす」(ISBN 4-492-22152-2)

本:「英語オンチ」は絶対なおる!(ISBN 4-344-00471-X)

日本は国境というものがありません。海岸線は30,000kmありますが。大陸の内陸部で四方他の国々と接しておしくら饅頭をされた経験が皆無なのです。隣国の体温を肌で感じる事ができないのです。だからこそ人一倍、外国語教育が必要なのではないでしょうか。

日本の政治家と官僚は、おっとり刀ですね。日本の政治家のほとんどは今や世界の共通語となっている言語からから逃げ回っているのです。

できたらその場にいたくないといつも考えているのです。世界共通語で喋っている多国籍グループに入っていくことができません。軽度の自閉症なのです。

ですからプライドを保つため問題外の外と考えざるをえないのです。かれらは内弁慶なのです。完全な現実逃避です。

この点については江戸時代のお殿様体質が抜けきらないのですね。政治家が現実逃避していたらその国はどうなる!

それから日本の財政を圧迫している公立学校のほとんどの英語の先生もそうです。英語しゃべれる人材を作る確率は限りなくゼロに近い。それどころか英語嫌いを造っているのですから。忸怩たるものを感じていないのだろうか。

 自分達は一年で一回ぐらいの割合で、団体旅行の引率の旗がないと海外旅行ができないでいる日本の公立の英語の先生。人前でいつ英語を話しかけられやしないかとびくびくしている英語の先生。次世代、次次世代のことはどうでもいい、自分と自分の末裔だけが良ければと考えている英語教師。もう日本は先が見えていますね。日本は不思議の国ですね。今の日本の日本人の英語力の無さはあまりにもひどすぎるとケント・ギルバートさんは言ってました。日本の英語教育はスケートを習うのに図解付きの本ばかりを読まされているようなものです。

いったい先祖代々、何年日本人をやっているんですかと言いたい。いつになったら外国語の一つや二つ話せるような余裕が生まれるのでしょうか。要するに原因を科学的に研究する心にゆとりがないのですね、日本のエリート達には。だめだこりゃ。

なぜ日本人が外国語の習得率がダントツに悪いのか国家的に研究しようとしない。こういう政治家などがいるかぎり、持続可能なゆとりある社会が継続する時代が来るわけがありません。

いや自分は日本人だから日本語だけ話せればよいという政治家がいたらそれは甚だしい時代錯誤。こういうことばが出てくること事態、自ら世界を知らないことを公言してはばからない政治家といってよいでしょう。

そういう政治家は××××原理主義者予備軍です。日本の国は100年後、150年後には原理主義者の指導者が十二単を身に着けなければいけませんと法律、規則を発布しているかもしれません。

 

 シカゴ・カルチャラル・センターにて

政治家がインタビューを受けたとき外国の人々に分かるようなことばで世界に向かって話さないと、外国の国々の英語の識字率がどんどん上がって英語で話せば、これは開かれた情報国家となります。政治家が終えた国際会議の内容を日本語でインタビューアに話すと世界の人にわかってもらえないのです。いつもどこでも通訳を付けることは物理的に不可能な事なのです。英語を喋れないと30年後には日本の国はほとんど顔のない、何を考えているのか分からない「秘密主義」の国と誤解されかねないでしょう。通訳がいればいいといって済まされる問題じゃないです。

日本には国境がありません。国際会議とか公式の場では通訳が付きますが、いまやそれに付随した談話的な状況もどんどん増え、外国では首脳同士が世界の共通語で談話していところが世界のニュースにとなったりしています。これはりっぱなりっぱな情報公開です。日本政治家にはこれができない。通訳なしでの政治家同士の付き合いもどんどん増えていくでしょう。そうなったら日本は完全に立ち遅れます。
もう立ち遅れた領域に入っているかもしれません。そうとうな思い切ったことをしないと日本との格差は広がるばかりです。そして日本は世界の孤児となるのです。

あなたは、日本と世界の間にはヴィヴィッド (vivid) な会話があると思いますか。この問いにはこれ以上の条件をあえて付けません。いままでの日本のほとんどの政治家は軽い自閉症だったんですよね。こういう人たちを頭に頂いて、ゆとりある社会、それが継続する時代がやってくると思いますか。
 
さすが中国は漢字の生まれた国だけあって「四音」と言うのがあるので、同音異義語が非常に少ないと思われます。

 一度、「日英中辞典」(KODANSHA PAX 日英中3カ国語辞典 ISBN4-06-265313-3)を見てください(この場合の「チュウ」は程度を表す「チュウ」ではありません)。

どうも表紙にあるように「日英中辞典」を'RI-YING-ZHONG CIDIAN'と発音するようです。しかもこれに四音というイントネーションが付きます。日本語読みではニチ・エイ・チュウ・ジテンと、ほとんど抑揚がありません、あたかも生命維持装置を取った直後の心電図のようですね。

「しゃせい(2)」では 「x i e s h e n g」 と 「s h e j i n g」 と別々に発音します。しかもこれに「四音」というイントネーションが加わりますから、もっと多様になるわけです。

「コウモン(5)」のうち二つは、「x i a o m e n」 と 「g a n g m e n」 と発音され、もちろんイントネーションが加わります。 

シカゴ市内

私の想像力はまた大きく膨らみます。

同音異義語が非常に少ないと言うことは、音声を入力して目に見える文章にする機能に適しているということです。中国では音声で入力して目に見える文章にする精度の高い機能を持ち、それで手ごろな市販価格のパソコンの出現がが日本より早いかも知れません。

同音異義語が少ないので修正する箇所が非常に少なくて済むと思います。日本にも同じように音声を文字文章にする機能を持ったソフトはありますが、修正をほとんどしなくていいほどの性能のものは市販レベルの価格では手に入らいほど非常に高価になると思います。

それでも修正は必要であると思います。その文章はぎこちない文章だと思います。「ことば」と「言語」を完全にみきわけて翻訳できるだろうか。「結婚」と「婚姻」を間違いなく原稿どおり訳せるだろうか。

同音異義語が多すぎて、求めている言葉を同音異義語から選ぶのに前後の文脈を考えたりしてコンピュータは全体として途方もない時間と労力を費やすと思われるからです。

☆オテナの塔さんへ

・「方向音痴」について:英語には方向音痴に相当する単語はないようです。英語は素朴に言います。
 No sense of direction というのが一般的です。'He has no sense of direction.'
・「味音痴」について :味音痴に相当する単語もないようですが、'He has no sense of taste.' というのが一般的のようです。

最後に、日本の100年後の予想(tanaka-ma3 さんへ):
日常でも英語が使われ、英語が公用語になっています。カタカナはなくなっています。日本語は一応公用語になっていますが、いまの日本語を使いこなす人は70歳以上の人です。和語が大切にされ、音読みがなくなり 訓読みが復活し、ひらがなだけが生き残っています。絶滅危惧言語として大切されているでしょう。

O'hare International Airport シカゴ市内へ向かう Chicago Transit System の車内から両サイドに走る高速道路を望む。外国を一人で旅行するといろいろなハプニングに遭います。英語で対応しなければなりません。遠い外国から来たお客さんは一般的に大切にしてくれます。国民一人一人が外交官なのですね。本国へ帰って悪口を言われたくないという気持ちもあるのでしょうが。ちなみにこのトランジット・システムはビジター料金で7日間乗り放題で20ドルでした。でも外国へ行ったときは夜間だけは極力外出しないようにしてます。

 

参考資料 (平成29年10月吉日追加)
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日本語はそもそも即自存在(Being-in-itself)且つ先史人用の言語で、言語の無い処に初めてでき、文字を必要としない音韻のみの開音節言語だったのであり、英語・中国語は開音節言語の中からそれぞれ一つが発展的に生まれて来た閉音節言語であって、対自存在(Being-for-itself)且つ有史(歴史)人用で、必ず文字を伴う閉音節言語である客観的証拠(「一円現象」One-Yen-Coin-Phenomenon)を発見した!// 日本はその言語と近代・現代の生活様態との間に大きな乖離が生じてしまった、世界で唯一言語的に発逹障*気味の特殊な国家/特にソフトウエア中のソフトの政治の世界において/だから日本にだけE=mc^2の実証である原爆が一度に二つも落ちた/それ故平和憲法9条(戦争放棄)と96条(改正手続)は変えてはいけない & My EXISTENTIALISMと実存主義 
    
 

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kenta-ok

シカオケnice!
by kenta-ok (2007-04-08 20:41) 

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