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人間の存在は固体ではなく「現象」ではないのか/ The existence of a human being is a phenomenon, not a solid body!? Its existence begins at birth and ends at its death. [サルトルと実存主義]

人間の存在は固体として考えるのではなく「現象」として考えるのではないのか。

「現象」とは「時間」の概念抜きでは考えられない。

人間が死ぬとその現象は無くなってしまい、抜け殻だけの固体(物質のみ)となってしまうのでは。

このことははサルトルが残した言葉にも符合すると思う、

『対自存在*1自体は(形も重さも無い)*2無である』と。

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*1  対自存在: 「即自存在」と「対自存在」について

   即自存在 = 「それがあるところにありないところにないもの」

   対自存在 = 「それがあるところになくないところにあるもの」

   「即自存在」と「対自存在」は、「互いにあるところになくないところにあるもの」となり、即自存在と対自存在は「同じ場所(ステージ)に存在しない」ことを表わしている。

この「即自存在」と「対自存在」の法則が、日本語文と英文が円周上に互いに反対回りに構成されて行くという言語現象に如実に現れている。

もっと単刀直入にいうと僕は、

日本語自体が「即自存在」であり、英語とその他の閉音節言語自体が「対自存在」であると考えている。

だから僕が一番実存主義に適った(一番子音が多くて一番地球の重力の影響をを受けない)言語と考えてる英語では、言語とその言語を話す人間を同一人格視して "English" という一つの単語で表現している。

日本語はそれだけ変わっているということである。

日本語文と英文もこの「即自存在と対自存在」と同様決して(観念的に)同じ場所(同じステージ)に絶対に存在しないのであり、できない筈なのである。

その多くをしちゃったのが日本語であり、日本の国なのである。

もし同時に或いは同じステージに存在しているとすればその企画・実施は間違っている筈であり実効性がない筈であり、ただの無駄・徒労に終わる筈であり、或いは全く反対の効果しか生まない筈である。

それならば一層のことやらない方ずっと益しの筈である、

先の太平洋戦争のように、日本の今の英語教育のように。

一言多かったかなぁ。

350px-Class-A_War_Criminals_in_bus[1].jpg

▲今のサンシャイン60の近く当時の巣鴨プリズンに護送されるA級戦犯たち

日本語が唐の昔に悟性の始まりである閉音節言語になっていたら

日露戦争も日清戦争も太平洋戦争も起こらずエイキュウ戦犯も出ることもなかったろうと

自称市井の哲学者の僕は思慮する。

*2 ( )書きはブログ管理者が挿入す。

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参考文献

手前味噌的!? 小論文

参考資料

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MyBlogRelatedPage: 開音節言語の日本語はそもそも即自存在・Being-in-itself・先史時代用の言語であり、閉音節言語の英語・中国語は対自存在・Being-for-itself・有史時代用の言語である客観的証拠(簡潔で美しい現象)を見つけた!

 


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