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「諸行無常」とは、実存主義で言うと・・・ [実存主義]

「対自存在」の世界においては、「『AはAであった』としか言えない」ということであると思う。

実存主義は、全てをカバーする!?

ここでは、ただそれだけ。

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ふと考えた、対自存在である「意識」はサルトルが説明した以外に、「言葉(言語)」を理解する、と説明すれば「動物」などは含まれないことになり、解り易くなりはしないだろうか [実存主義]

ふと考えた、サルトルが説明した* 以外に、対自存在である『「意識」は言葉(言語のこと)を理解する』、と説明を加えれば、動物などは含まれないことになり、解り易くなると思うが、いかがなものだろうか。

* サルトルは、「意識」とは次のようなものであると言っている。

・ 「意識」そのもの自体は「無」である。

・ 「意識」は自己を超越したものを志向する。

・ 「意識」は他の存在(即自存在のことだと思う ‐ ブログ管理者)と同列に並べることは出来ない。

・ 「意識」は指向性を持っている、など。

 ◇

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人間が死ぬということは・・・ / 人間万歳! [実存主義]

人間が死ぬということは「意識」という「対自存在」から、そのものだけで存在できる「即自存在」物に戻ることである。

「意識」の存在である人間が出来ることは地球の改造程度で、とても宇宙は変えられない。

宇宙はビッグバンから生まれ、そしてビッグバン以前の針の頭ほどの極小宇宙に戻るらしい。

人間のほかに「意識」を持ったものがこの宇宙に居たとしても、その「意識」の存在は宇宙を変えるでもなく、それどころかこの宇宙にいささかも影響を与えるものではなく、無きに等しい。

だからこそ「意識」の存在である人間の存在、生命の存在はこの宇宙にとって奇跡なのかも知れない。

男と女が交わることは、人間の営みの中で最も美しいものの一つではないだろうか。

それは宇宙が一つのもから陰陽の二つなどに分離し、そしてまた元の本源的な唯一のものへお互いに回帰しようとする姿ではなかろうか。

男と女の関係でお互いに協力し、愛し合うということは、もっとも美しいことではないだろうか。

だからこそその行為によってのみ新しい生命が生まれ、生命が継続されるようになっているのだと思う。

人間万歳!

 ◇

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この宇宙は現在は人間という「対自存在」物がいるが、結局最後は生命の全くいない「即自存在」物だけとなって‐ビッグバンの逆の工程を経て‐終るのか [実存主義]

この宇宙は少なくとも現在は人間という「対自存在」物がいるが、結局最後はビッグバンの逆の工程を辿って、生命の全くいない「即自存在」物だけの世界となり、最後は針の先ぐらいの点になって終るのだろうか。

実存主義を宇宙に当て嵌めるなど、僕の観念の世界は広いと言えるだろうか。

 ◇

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サルトル VS アラン!?/ 『行動の教義』と『悲観主義は気分のものであり、楽観主義は意思のものである』*/ 『人身事故をゼロに!』を願って*** [実存主義]

兼ねてからサルトルがアランを意識して述べていると思われる箇所を掲げてみる。

それは彼の書籍、「実存主義とは何か」の最終部分**である。

その前に、両者の代表的な言葉を掲げてみる。私自身はサルトルの実存主義の良き理解者だと思っているので、サルトルを先に掲げさせて貰うことを、お許しください。

サルトル: 『実存は本質に先立ち、本質を創る』、『実存主義は楽観論であり、行動の教義である』

アラン: 『悲観主義は気分によるものであり、楽観主義は意思によるものである』*

これらに対する私のコメント:

両者の上の発言は、両方とも正しいと思う。人間は遅かれ早かれ一度は「絶望」に突き当たるものだが、その対処の仕方は、サルトルの方が本質的と思われる。

(このアランの言葉の正しさを、客観的な証拠と思われるものを挙げて述べたいと思うが、いま文面を構想中なので、ここではご容赦ください。)

* 二通りの訳があるようだが原著はフランス語の書かれた筈で、いずれにしても類人猿くん僕には分からない筈である。

『実存主義とは何か』の最終部分**

  『以上いくつかの考察によって、われわれになされる反駁ほど不当なものはないことがわかる。実存主義とは、一貫した無神論的立場からあらゆる結果を引き出すための努力にほかならない。この立場は決して人間を絶望に陥れようとするものではない。しかし、すべて無信仰の態度をキリ

スト徒流に絶望と呼ぶなら、この立場は本源的に絶望から出発しているのである。実存主義は、神が存在しないことを力のかぎり証明しようとするという意味で無神論なのではなく、むしろ、たとえ神が存在しても何の変わりもないと明言する。それがわれわれの観点なのでる。神が存

在すると信じているのではなく、神の存在の問題が問題でないと考えるのである。人間は自分自身を再発見し、たとえ神の存在の有効な証明であろうとも、何物も人間を人間自身から救うことは出来ないと納得しなければならない。この意味で実存主義は楽観論であり、行動の教義である。

リスト教徒が自分自身の絶望とわれわれの絶望とを混同し、われわれを絶望者と呼ぶのはただ欺瞞によってである』 (下線は類人猿くんが付加)

** サルトル全集 第十三巻 「実存主義とは何か 副題:実存主義はヒューマニズムである」p76 - 77

***2015年10月追加

(参 考)

 サルトル: 1905 - 1980  フランスの哲学者

 アラン: 1868 - 1951  フランスの哲学者

サルトル全集〈第13巻〉実存主義とは何か (1955年)

サルトル全集〈第13巻〉実存主義とは何か (1955年)

  • 作者: ジャン=ポール・サルトル
  • 出版社/メーカー: 人文書院
  • 発売日: 1955/07/30
  • メディア: 単行本

200px-Jean-Paul_Sartre_FP.jpg

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§ 今日のニュース(2011/09/19[Wed]) 

・野田首相が初の外遊で、ニューヨークへ、今回は「顔合わせ」程度で、同盟深化の目標は確認はするが、普天間の飛行場の移設やTPPの交渉参加など個別の問題については突っ込んだ話ないとみられる、とのこと。

類人猿くんからのコメント:

・米側では、日本側が偏らずにいろんなチャンネルを通して、問題が煮詰まって来るのを静観する気持ちもあるのではないか。首相が毎年替わり、参勤交代ではなくて、一勤交代とも云えそうである。米国は表面ではニコニコしているが、こういう無駄を非常に嫌う国でもある。さて、野田総理

には持ちしてもらいたいものです。

Sankin kotai.jpg

▲江戸時代の参勤交代

  ◇

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二大政党制が大事だから・・・/ どうせ世界の自*症国家はどっち転んだって大した変わりはねぇ!と思って・・/ 菅政権を支えて行こう/ と「行動の教義」/ でないと日本も原理主義者の国になってしまうぞ! [実存主義]

今回、中国漁船が日本の巡視船に衝突した映像のビデオがYouTube へ流出したのは、民主党政権にはまだ公権力を傘にした日本人の気質として「オイコラ精神」まだ少し残っているということ。危機管理がネット時代以前のままである。情報の機密が確実に100%担保される確証が

いのなら、この程度の情報は初めから公開しちゃった方が良い。このプロセスすら念頭になかったのだろう。

軍事行動でないのだから、海上保安庁のパトロール業務を何も国民に、世界に隠すことはないだろう。またオ*ンコナスでもないんだから隠すことでもない筈だ。

これでもかこれでもかと、厭と云うほど民主党の政治の失態を見せ付けられてから、自民党に政権を引き渡した方が良いと思う。

そうしている間に少しは希望が見えて来るかも知れない。

それにしても菅総理は米国のアーミ*ージ氏のような太っ腹からほど遠いなぁ。彼はおっとり刀の昼行灯だ。

米国のアーミテージ氏みたい人を男の中の男と云うんだよ。彼の前では世界の政治家は誰でも怯(ひる)んでしまうよ。理由は威圧感ではなくて、愚図愚図しておらず、弱い者に優しく、全身から漲(みなぎ)る「自信」である。

菅総理も日本の鹿馬殿様の一人のようだ。

悠長な日本語が原因なのである。

それでも第二政権を育てるために、短命政権で終わらせないようにしなければならようだ。

どいつもこいつも、似たり寄ったりにたり貝なのである。

実存主義では人間は必ず絶望に遭遇するという。実存主義は、サルトルが言ってるように「行動の教義」なのである。人間の国家も同じであると思う。

絶望を恐れるな

でないと日本はそれこそ永久に自民党独裁になってしまうよ。そして先史時代に生まれた音韻言語・「日本語の関係で」*、行く着くところはイランのような Japanese foundamentalist (原理主義者)の国に

なってしまうよ。

自民党には古くて、世界の自*症のようなおかしい代議士が沢山いるから。

* そのうち日本語を根拠にして、例えば「敬語を必ず付けなさい」とか云って強要し出し兼ねない。「敬語」と云うのは日本語の語彙が非常に少ないとき(中世?)に生まれたものであり、単語に必ず意味がある英語や中国語と違って日本語では「丁寧語」とか「尊敬語」とか「謙譲語」のは「音韻の響き」つまり「情緒」、平たく言えば「気分」に訴え、還元されるものである。

自民党の日本人は外国語を勉強するよりも敬語を身に付けるべきだ」のようなことを云っていたが、時代錯誤も甚だしいそれは外国語の一つも出来て、日本を逆戻りさせないことを客観的に確実に担保した人間がが言うことである。

彼のように英国の日本大使館に勤めても外国の一つも出来ない代議士がまた、政権を取ったら、組織の論理として政権を維持するために、何でも言い出すのである。ついには「核兵器を持とう」と言う出すに違いない。

日本人の多くが彼のように外国語の一つも出来ずに「日本人だから着物を着ましょう」、「日本人だから雅楽だけを聴きましょう」とかで、どっかの国が「テレビは観ちゃいけない、音楽はクラッシクに限る」と際限がなくなってしまうのである。

そのうち「日本人だから敬語を使おう」が「日本人だから敬語を使いなさい」になり、「日本人だから着物を着なさい」と言い出すのに違いないのである。


こっちの方の爆弾が怖いぞーっ、まん丸くて/ 米ナスと云うそうな
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 ◇

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米国は既に実存主義をほぼ完全に実践していると思われる/ 行動の教義/ サルトル被れからのご託宣! [実存主義]

サルトルが出現して以来、米国は宗教の力では対処できない多くのことを、実存主義的に対処していると思うのは、私だけであろうか。

次に、サルトルの著書「実存主義はヒューマニズムである」の一部* を掲載する。

・・・・・・・・。実存主義とは、一貫した無神論的立場からあらゆる結果を引きだすための努力にほかならない。この立場はけっして人間を絶望に陥れようとするものではない。しかし、すべて無信仰の態度をキリスト教徒流に絶望と呼ぶなら、この立場は本源的絶望から出発しているのであ

る。実存主義は、神が存在しないことを力のかぎり証明しようとするという意味で無神論なのではなく、むしろ、たとえ神が存在してもなんの変わりもないと明言する。それが我々の観点なのである。神が存在していると信じているのではなく、神の存在の問題が問題なのではないと考えるの

である。人間は自分自身を再発見し、たとえ神の存在の有効な証明であろうとも、何ものも人間を人間自身から救うことはできないと納得しなければならない。この意味で実存主義は楽観論であり、行動の教義である。キリスト教徒が自分自身の絶望とわれわれの絶望とを混同し、われ

われを絶望者と呼ぶのはただ欺瞞によってである

(太字化、大文字化、色によるハイライト処理はブログ管理者が施した)

* この部分は、サルトルが1945年パリのクラブ・マントナンで行った講演のために書かれた論文の最終部分、結論の部分である。(サルトル全集 第十三巻・「実存主義とは何か」・昭和44年6月20日改訂重版発行のP73-74に書かれている/ 発行所:株式会社 人文書院)

Jean-Paul Sartre (1905.6.21 - 1980.4.15)
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 ◇

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言語が造る顔相骨相/ 「そのとき人間は悪を選び得ない」と実存主義 [実存主義]

実存主義*1 ではこの世の存在を、「即自存在」と「対自存在」の二つに分ける。即自存在はそれだけで存在できるものであり、「石ころ」とか「富士山」だとか「素粒子」などもこれに入る。対自存在とは「意識」の存在であって自分の外にあるものを意識したり、自分自身を意識する存在であっ

て、今のところ人間だけである。

『「意識」は他の存在(即自存在のこと)と同列に並べられる存在ではない、「意識」は自己を超越したものを志向する』と言う。また『意識は常に何ものかについての意識である』とも言っている。

そこでサルトルを敬愛する類人猿くんは、「意識」は「言葉」でするものではないかと、「意識」とは一つ一つ言葉に置き換えてそれを文章にすることによって人間は「意識」をしているのではなかろうかと、考えた。

そこで類人猿くんは、上の文の一つの中の「意識」の所に「言葉」を入れ替えてみた。

『言葉は常に何ものかについての言葉である』と。(言葉イコール概念)

これでもって類人猿くんは、「意識と言うものは言葉(言語)と一身同体で不可分なものである」と考えた。

つまり、「言語のあり方」がダイレクトに人間の表情、顔相、骨相に影響を及ぼすと考えるのである。

もちろんそれらに影響を及ぼすものは言語だけではなくて、豊かな食生活、豊かな*生活、豊かな芸術生活など(お化粧やファッションなどを含む)が挙げられると思うが、これらは間接的に影響を及ぼすものであって、「言語のあり方」が、人間の表情、顔相、骨相の基調を造ると考える。


*1 実存主義 (Existentialism) : 「実存」とはいかめしい言葉が、平たく言えば「存在主義」のこと。フランス語でも英語でも 'existence' (存在)という言葉を使っている。要するに「人間」が人間としての特徴を持つ存在になる以前に、人間は特徴(本質=essence)付けられない「存在」だけ

段階がある、と言うもの。そして自分を特徴付けて行くのは自分自身に他ならない*2と説く。(「自分」と言うのは「自分一代だけ」と説くのではない、人間は祖父母、両親、自分と綿々と命を繋いで来たのであり、そのそれぞれに自分自身があり、そのそれぞれの自分に「存在」の時期が

あって人間はその都度自分自身で選択していた*3のであり、先祖から祖父母、両親そして自己と、積み重なって現在の自分があると考えるべきであろう)

*2 自分を特徴付けて行くのは自分自身である: 実存主義が主体性の哲学とも言われる由縁である。

*3 「・・・選択してきた」: 「そのとき人間は悪を選び得ない」と言ってって、サルトルは人間にとって救いとも言える言葉述べている。この表現もサルトルの実存主義が、「ヒューマニズムの哲学」と呼ばれる由縁の一つ、と類人猿くんは考える。

次に、サルトルの著書「実存主義はヒューマニズムである」の一部* を掲載する。

・・・・・・・・。実存主義とは、一貫した無神論的立場からあらゆる結果を引きだすための努力にほかならない。この立場はけっして人間を絶望に陥れようとするものではない。しかし、すべて無信仰の態度をキリスト教徒流に絶望と呼ぶなら、この立場は本源的絶望から出発しているのであ

る。実存主義は、神が存在しないことを力のかぎり証明しようとするという意味で無神論なのではなく、むしろ、たとえ神が存在してもなんの変わりもないと明言する。それが我々の観点なのである。神が存在していると信じているのではなく、神の存在の問題が問題なのではないと考えるの

である。人間は自分自身を再発見し、たとえ神の存在の有効な証明であろうとも、何ものも人間を人間自身から救うことはできないと納得しなければならない。この意味で実存主義は楽観論であり、行動の教義である。キリスト教徒が自分自身の絶望とわれわれの絶望とを混同し、われ

われを絶望者と呼ぶのはただ欺瞞によってである

(太字化、大文字化、色によるハイライト処理はブログ管理者が施した)

* この部分は、サルトルが1945年パリのクラブ・マントナンで行った講演のために書かれた論文の最終部分、結論の部分である。(サルトル全集 第十三巻・「実存主義とは何か」・昭和44年6月20日改訂重版発行のP73-74に書かれている/ 発行所:株式会社 人文書院・伊吹武彦訳)

Jean-Paul Sartre (1905.6.21 - 1980.4.15
200px-Jean-Paul_Sartre_FP.jpg

 ◇

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実存主義的な生き方 [実存主義]

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  □ 

人間が生きていると言うことは、「意識する」ということであると思う。

死ぬことによって人間は意識をする組織が働くなり、意識する「対自存在」からそれ自体で存在する「即自存在」となる。

人間は死ぬことによって無となる。まったくの無なのである。世界は今までどおり存続し、新しい生命が次々生まれて行く。

あの世があるというのは嘘であると思う。

人間は、一度かない人生をどう生きるかであると思う。


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